「高島忠平古代史講座と邪馬台国part 3」



2022年12月17日(土)

「高島忠平古代史講座」(主催:佐賀県徐福会)


  高島忠平先生の第3回古代史講座「倭国と邪馬台国part 3」が徐福長寿館で開催されました。
当日は「九州徐福文化フォーラムIN 佐賀」(主催:九州徐福フォーラム)にご参加の方々も聴講され会場は満席でした。

 古代統一国家は、弥生時代に形成された環壕集落・巴型銅器・銅腕輪の分布圏であり、ヒスイ、青銅武器・銅鐸など青銅祭器、鉄製武器、剣・太刀・鉄鏃そして土器などが地域間或いは広域に行き交いしている列島の一部地域社会を基盤に生成した。

 北海道・東北・沖縄を除く地域で、歴代中国王朝は、紀元前1世紀この地域の「百余国」に居住する弥生人を「倭人」と称し、「朝見」を認めた。

 紀元1世紀初頭には、一定の政治的勢力「東夷の王」を認識した。

 紀元1世紀中頃、倭人社会の一部政治勢力「倭国」の「倭奴国王」を外臣として冊封した。

 3世紀には、「倭国」の「女王卑弥呼」を「親魏倭王」として冊封した。

 3世紀後半から4世紀にかけて、列島各地域の倭人の地域王権(地域国家等)は中国・朝鮮半島との「倭国」としての外交・交易権をもとめて派遣を争った。

 5世紀から6世紀後半にかけて、徐々にヤマト地域王権が、地域国家のなかで台頭してきた。

 6世紀前半の「磐井の乱」は、列島各地の地域国家ヤマトとツクシとの「倭国」の派遣をめぐる戦いであった。……等々、

様々な資料をもとにお話をまとめてくださいました。
特に吉野ヶ里遺跡群が物語るものは興味深く拝聴しました。

高島先生、ありがとうございました。

 
  
  



「クリスマスリース作り」



2022年12月11日(日) 「クリスマスリース作り」

吉野ヶ里歴史公園の“古代の森“で クリスマスリース作りが開催されました。
毎年、大人気のリース作りと門松作り。 今日も寒空の下、 小学生の親子が参加し ツタでリースの形を作り、 松ぼっくりや木の実を グルーガンで真剣に飾りつけしていました。

吉野ヶ里歴史公園では この時期はライトアップも行われています。 みなさま、 しっかり防寒対策をして 遊びに来てくださいね。

  
  



「高島忠平古代史講座と邪馬台国part 2」






2022年11月19日(土)「高島忠平古代史講座」
「高島忠平古代史講座と邪馬台国part 2」が佐賀市徐福長寿館で開催されました。
(主催:佐賀県徐福会)

○弥生時代中期末頃には、巫女王が一国の統治の一翼を担うまでに成長した。立岩遺跡の前漢式鏡六面・鉄剣・銅矛を副葬する男性墓10号棺(世俗王)と頭飾り・小型の漢式鏡・削刀を副葬する女性墓28号棺(巫女王)との関係にも俗と聖の権威による一国の統治権力の頂点をみることができる。やがて、「国」相互の戦い、混乱が拡大する中で、巫女王は「国」や「国」連合の統治の主役を次第に担うようになる。

○弥生時代中期後半、九州北部の王墓の副葬品は、それまでの青銅器等朝鮮半島系の文物に換わって中国系の銅鏡・鉄製武器が採用されるようになる。『前漢書・地理誌』「・・分かれて百余国を為し、歳時を以って来り献見す」とあるように、九州北部の国々の王は漢帝国を東アジアの宗主国と認識、それぞれ朝貢し中国の文物を賜り、一国の王であることを内外に誇示したと考えられる。 ○「倭人」社会の一部が「金印紫綬」でもって「倭国」として冊封されるのはAD5年『漢書・王莽伝』「東夷の王、大海を渡って珍宝を献じ・・」を経て、AD57年『後漢書・東夷伝』「倭奴国奉献朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南界なり、光武賜うに印綬を以ってす」まで待たねばならない。 …等々、様々な資料を提示して丁寧にお話くださいました。

○次回の「倭国と邪馬台国part 3」は下記の通り開催されます。いよいよ佳境に入る「高島忠平古代史講座」 「乞うご期待!」です。

*日時 12月17日(土) 13:30~15:00
*参加費  500円(資料代込)
*問合せ 佐賀市徐福長寿館
 0952-98-0696

  
  



「高島忠平古代史講座」




2022年10月15日(土)
ミスター吉野ヶ里といわれる高島忠平先生の古代史講座が三ヶ月にわたり「倭国と邪馬台国」をテーマに開催されます。
(主催:佐賀県徐福会)


○第一回目は、本日「倭国と邪馬台国part 1」として佐賀市徐福長寿館で実施されました。

Ⅰ 倭国の形成
①倭人と中国王朝
②北部九州における「国」の成立

Ⅱ 墓制にみる「国」と王権
①九州北部の弥生墓制と甕棺墓
②親族ごとの墓地
③王墓の出現
④一般成員の墓、列埋葬
⑤祖霊祭祀
⑥武器の副葬

Ⅲ 吉野ヶ里遺跡発掘区全体図と出土品
Ⅳ 倭国王権の成立
…等々、順序立てて資料を提示しながらお話くださいました。

○祖霊祭祀のお話のなかで
「…吉野ヶ里遺跡では墳丘墓と祭壇とは、ほぼ南北に配され、さらに、この延長70km先に雲仙普賢岳がある。火を噴く山を南に位置付ける例は、佐賀県鳥栖市の柚比本村遺跡にも阿蘇山との例があることを、七田忠昭が指摘している。吉野ヶ里ではこれらを結ぶ線は儀礼的聖線として意識されたことが、その後の環壕集落の計画的造営を秩序づけていることから窺える。当時の中国における宗廟(祖廟)を北に、祭壇(天壇)を南に配した都城の祭祀儀礼、つまり南に朱雀配する空間的思想が、古代中国から、紀元前1世紀の日本列島の一部に既に取り入れられていた。」というのを興味深く感じました。

○第二回の「倭国と邪馬台国part 2」は下記の通り開催されます。
*日時:11月19日(土)
13:30~15:00
*会場:佐賀市徐福長寿館
*参加費:500円(資料代込)
*問合せ先:佐賀市徐福長寿館(電話0952-98-0696)

*興味のある方はご参加されませんか?


  
  



「吉野ヶ里遺跡の再発掘調査と展望」



2022年6月26日(日)
講演会
演題:「吉野ヶ里遺跡の再発掘調査と展望」
講師:高島忠平先生
佐賀県徐福会副理事長 佐賀女子短期大学名誉教授
会場:佐賀市徐福長寿館


○「…今年、発掘調査を開始した場所は、長さ600mに及ぶ弥生時代中期(約2200年前~2000年前)を主体とした甕棺墓列の延長線上にあたります。この場所の北に隣接する調査区で発見された甕棺墓のなかの1基については、棺外から前漢鏡が、棺内からは両腕に36個の貝製腕輪を装着した女性の人骨が出土しています。東に約100m離れた北墳丘墓には、14基の甕棺墓が確認されており、銅剣8本、ガラス製管玉79個など貴重な副葬品も発見されており、今回の発掘調査箇所が弥生時代にどのような役割を持つ場所であったのか、注目されるところです。また、当該地は、日吉神社(創建年代不明)が所在していた場所にあたります。中世には少弐氏勢福寺の支城として江上氏が整備した「日吉城」であったとされ、中世の堀や土塁が残っている可能性があります。」 佐賀県文化課文化財保護室(配布資料より一部転記)

○「都」というのは、宗廟(そうびょう)と社稷(しゃしょく)を配置しているもの。この二つがないと「都」ではない。
吉野ヶ里は倭国の「都」があったところではないだろうか。
考古学とはいろいろ推測しながら仮説を立て仮説を確かめる。当たるも八卦、当たらぬも八卦。再発掘で何が出てくるか分からない楽しみがある。

○高島先生はこれまでに発掘されたいろいろな事例を挙げながら、吉野ヶ里遺跡の再発掘への期待をお話されました。



  
  



【吉野ヶ里歴史公園の水田で田植え】




2022年5月29日(日) 吉野ヶ里歴史公園内の水田で 3年ぶりとなる「田植え」が行われました。 古代の如く、小さな水田に 機械を使わずに、手で丁寧にひとつずつ 赤米の苗を植えていきました。

貫頭衣を身にまとい、 足をとられながら夏日の中で 子供たちが奮闘しています。 田植えの後は、 昨年植えた赤米と、 豚汁のお振る舞いもありました。

秋には案山子作りもありますよ! みなさん、ぜひ参加してくださいね。

  

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【10年ぶり!吉野ヶ里遺跡発掘調査再開】




「吉野ヶ里遺跡」の特別史跡区域内は長年心待ちしていた未調査地があります。
この未調査地は、弥生時代中期の王たちが埋葬されたと考えられ、銅剣やガラス管玉などが見つかった北墳丘墓のすぐ西側に位置します。 これまで日吉神社の境内地でしたが日吉神社の移転を機に佐賀県は10年振りに発掘調査を再開したのです。

2022年5月3日(火曜)10時に『鋤(すき)入れ式』が執り行われました。

山口知事、伊東吉野ヶ里町長、七田忠昭佐賀城本丸歴史館長の挨拶の後、七田館長の講話もありました。 現地では、先着200人に勾玉などが描かれた缶バッチなどが配布されたりと子どもから大人まで、奈良や茨城、東京などから来られた全国の考古学ファンで賑わいをみせていました。

早速に顔を出す弥生土器や、甕棺であろう箇所も公開。
今日の日が、過去と未来を繋ぐ日になるといいですね。
発掘の様子は、5月8日(午前9時~午後4時半)まで一般公開されています。

来場者はどなたでも自由に見学できますので皆さま良かったらおいでください。

  




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2月23日 今日は何の日


今から33年前、1989年(平成元年)2月23日、NHKと朝日新聞一面トップで吉野ヶ里が報道されました。
翌日より全マスコミによって吉野ヶ里が報道され、考古学ブームとなりました。

1934年(昭和9年)に七田忠志先生が「吉野ヶ里には日本の歴史を書き換える重要な遺跡が眠っている」と考古学会誌に発表されてから88年になります。

古代ローマ時代のシルクロードの東の終点、平和の尊さを示す吉野ヶ里を弥生の景観と共に未来に繋ぐため世界遺産に登録できるように頑張りましょう。

※写真は「吉野ヶ里と徐福-佐賀平野で始まった弥生文化-」内藤大典著より


  


  


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