~佐賀市徐福長寿館 開館30周年記念講演会 報告~
日時:2025年11月30日(日)
会場:グランデはがくれ(佐賀市)
〇徐福長寿館開館30周年を記念して講演会が開催されました。
〇来賓として山口祥義佐賀県知事・坂井英隆佐賀市長のご出席をいただき、更なる徐福研究の発展や吉野ヶ里遺跡の重要さを述べられました。

高島忠平理事長による主催者挨拶

来賓挨拶 山口祥義佐賀県知事

来賓挨拶 坂井英隆佐賀市長
〇基調講演に先立ち、20周年の「徐福フォーラムin佐賀」のときのパネルディスカッションの模様がVTRで紹介されました。
・パネルディスカッション「徐福を探る 学問的成果から」
講師:土井ケ浜遺跡人類学ミュージアム名誉館長 松下孝幸氏の講演VTR視聴
〇基調講演
国立科学博物館 館長 篠田謙一氏
演題「古代ゲノムから見た渡来系弥生人の由来」
・DNAの解析は、従来の人骨の形態学的な研究とは全く異なる手法で、人類の起源と拡散、あるいは地域集団同士の近縁関係などを明らかにしつつある。2010年以降は、骨から抽出したDNA溶液に含まれる全ての断片の配列を決定する次世代シークエンサが利用可能になり、不可能と思われていた核DNA(ゲノム)の分析も可能になった。
・1万年前から2千年前までの東アジアの各地の古代人のゲノムを分析した結果、弥生時代以降に日本列島にもたらされたゲノムは、5千年ほど前の西遼河流域の雑穀農耕民が持っていたことが明らかになっている。この集団はもともと中原に栄えた大汶口文化の集団から派生した仰韶文化の集団の中から北上したグループと、北東アジアの旧石器人が合流してできた紅山文化にルーツを持つ。彼らは4千年ほど前には朝鮮半島に侵入するが、恐らくそこで在地の集団と混合し、やがて日本列島に入る集団の祖先となったと考えられる。
・一方、弥生時代を特徴付ける稲作農耕が朝鮮半島に入るのは3千3百年前で、そこからわずか数百年で日本列島に渡来する。この稲作農耕を伝えた集団のゲノムは解析されておらず、朝鮮半島で雑穀農耕民が、どのように稲作を受容したのかは解明できていない。
・縄文時代から古墳時代にかけて充分な数の古代ゲノムデータが揃ったとき、現代日本人の起源と成立に関する新たなセオリーが姿を見せることになる。現状のこの分野の研究の進展を考えれば、それは遠い将来の話ではないと思われる。
〇講演
佐賀県徐福会 理事長 高島忠平氏
演題「徐福と吉野ヶ里人の宇宙観」
・徐福と古代中国の宇宙観
古代中国の人々は「天下合一」宇宙の中心に「天」があり、その下に「地」が位置し、さらに人間がその間に存在するという階層構造を取っていた。この階層は、道徳的、倫理的な側面とも結びついており、人間は天の意思を受け入れ、それに従うべき存在と考えられていた。これにより、宇宙観は倫理観とも共鳴し、一つの統一的な世界観が生まれた。
・始皇帝の世界観(BC221~)
南方には桂林、象、南海の3郡を置き、北方には黄河に沿って陰山山脈までの34(あるいは44)の県を置き、黄河のほとりに城を築いて塞とした。このときはじめて都咸陽の位置を天下の中央に位置するように修正していった。北方の匈奴と南方の百越に囲まれた中華帝国を実現しようとした。始皇35(前212)年、北方に置いた九原郡から雲陽まで山を削り谷を埋めて直道という軍事道路を建造した。
同時に咸陽の人口が増え宮廷も狭くなったこともあり、渭水南の上林苑に朝宮を作り、阿房宮という壮大な宮殿造営に着手した。阿房宮から渭水を渡り、咸陽宮に連ねた設計は、閣道(カシオペア座)が天漢(天の川)を渡って営室(ぺガスス座)に至る星座を地上に投影した。天漢は東方の漢水からきたものであったが、西方の渭水を天の川にたとえたように、西方の地をそのままに天文によって関中平原の地を天下の中心に置いた。同じ歳に東海上の眗県に石を立てて秦の東門としたことも中華帝国の形成の一連の動きであった。(惠多谷雅弘他「多衛星データを用いた秦帝国の空間的考察」より)
・吉野ヶ里最初の移住民
吉野ヶ里遺跡南方約5㎞の詫田西分遺跡から縄文晩期から弥生中期にかけての土坑墓と甕棺墓から約130体の人骨が出土した。土坑墓人骨は、高身長・顔面平坦・突顎おいての甕棺墓の従来の「渡来系弥生人」と共通するが、顔面は低く幅は広く輪郭は「縄文系弥生人」に近い。顔面は高く、幅の狭い甕棺墓の「渡来系弥生人」とは著しい違いがあり、「土坑墓人」と「甕棺人」とは形質的に出自・系譜が異なることが指摘されている。
非公式ながら当該人骨のミトコンドリアDNAの分析で「土坑墓人」と「甕棺人」は母系が異なることが判明している。
・弥生時代後期から終末期
吉野ヶ里環濠集落が40ha以上に拡大。
北墳丘墓一帯を宗廟として新たに北内郭と祭壇など新たな諸施設。
南祭壇の周囲に壕を設け再整備。
政所として新たに南内郭を設置。
南内郭西方に大蔵(邸閣か)を有する蔵群。
市を設置
巨大な城柵を巡らす地域社会の祭政の一大拠点を形成。
・結びに
吉野ヶ里遺跡は、秦・漢帝国の統治支配の空間計画に習い設置された倭国の祭政拠点であり、それは「卑弥呼の都する所」邪馬台国にあった。
弥生文化は在来の縄文文化、移住民が伝えた稲作文化、青銅・鉄の文化を持った新たな移住民の文化、倭国形成期に中国からもたらされた文化とそれぞれの文化を持った人たちの多様・共生の社会であった。
〇対談
「科学の視点から『徐福をさぐる』」のテーマのもと、篠田謙一氏と高島忠平氏の対談がありました。
会場の皆様からのアンケートにもお答えいただきました。