~吉野ケ里遺の概要~
吉野ケ里遺跡は、1989年、中国の歴史書「魏志倭人伝」に記された邪馬台国を思わせるような濠や竪穴式住居などが発見されたことで一躍有名になった。
縄文時代後期には、吉野ヶ里丘陵の周辺部に人が生活していたと推定されている。
ここに人が生活し始めた大きな理由として、この地域が海と近かったことがあると考えられている。最終氷期が終わり温暖となった縄文時代前期には、縄文海進と呼ばれる海面上昇があり、有明海は吉野ヶ里丘陵の南端付近まで広がり、遺跡から2-3キロメートルほどの距離にあったと推定されている。
佐賀平野の水と大地の歴史・九州農政局ホームページより
有明海は干満の差が平均で5-6メートルと大きく、また遠浅の干潟を持つ。この干満の差や筑後川などの河川を利用した水運に優れたこと、また貝やカニといった食料が豊富に得られたことなどの好条件が揃い、この地域に人の定住が始まったと考えられている。
~発掘の歴史~
(略年表)
吉野ケ里丘陵一帯には昔から銅鏡等が出土していた。 | |
昭和9年(1934年) | 吉野ケ里遺跡の発見者、七田忠志氏が吉野ケ里には日本の歴史を書き換える重要な遺跡が眠っていると考古学会誌に発表。その後一生を遺跡研究と教育・保存に尽力。 |
昭和56年(1981) | 七田忠志氏逝去 |
昭和57年(1982) | 吉野ケ里丘陵工業団地化が佐賀県議会で議決される。 事前の発掘調査で環濠等出土 弥生時代中期の高床倉庫と考えられる堀立柱建物跡群や壕跡などが発掘され、炭化米多数などが出土している。 |
平成元年(1989) | 2月23日、NHKと朝日新聞一面トップにて吉野ケ里遺跡報道。 翌日より全マスコミが吉野ケ里を報道、歴史的な考古学ブームが到来。 11月12日、吉野ケ里遺跡全面保存会発足(佐賀の自然と文化を守る会より誕生) 全国より23万筆の保存の署名集まる。 |
平成3年(1991) | 吉野ケ里工業団地白紙撤回 |
平成4年(1992) | 吉野ケ里国営公園閣議決定 |
平成5年(1993) | 吉野ケ里工業団地・再浮上(吉野ケ里ニューテクノパーク) 全国より23万筆の保存の署名集まる。 世論の力で開発造成から守られる。 |
平成13年(2001) | 国営吉野ケ里歴史公園開園 一部県営公園 |
平成23年(2011) | 2月佐賀県議会で吉野ケ里(弥生時代の水田跡や竪穴住居跡とされる部分)に大型太陽光パネル(メガソーラー)設置案浮上。 保存会は直ちに保存の署名提出、陳情書提出を繰り返す。 6月、メガソーラーが設置され現在に至る。 |
昭和56年から57年にかけて弥生時代中期の高床倉庫と考えられる堀立柱建物跡群や壕跡などが検出され、炭化米多数や竪杵などが出土している。
考古学者の小笠原好彦・十菱駿武両先生方が吉野ケ里を中心に北部九州の遺跡群を世界遺産にと準備中と聞いた。
加えて、副島種臣外務卿は明治5年に231人の中国人苦力(くうりい)がペルーの白人により拉致されるのを救い中国に送り届けたので李鴻章の礼文が本丸歴史館に展示してある。
誇るべき歴史と言えよう。その他、孫文を中国人の刺客から守った大隈重信や古賀廉造の歴史も美談として仄聞している。
日中韓のみならず世界の平和に貢献する歴史が佐賀には埋もれている。
佐賀の歴史文化をいかに後世に遺産として残すか、県民の努力が問われているといえよう。
~古代史の謎に迫る吉野ヶ里遺跡~
吉野ケ里丘陵(現在の神埼市・神埼郡吉野ヶ里町)では、昔から銅鏡などが出土していた。
1970年代には佐賀県内の文化財関係者たちの地道な調査によって、広い範囲から土器、石器、甕棺などが発掘されるようになった。
1986年(昭和61年)当時、吉野ケ里丘陵は工業団地の計画が持ち上がったため文化財発掘の調査がされ、吉野ケ里丘陵一帯に広大な遺跡が眠っていることが分かった。
1989年(平成元年)2月には、吉野ケ里丘陵で大規模な環濠集落跡が発見され全国に報道された。
日本古代史の謎を解明するカギを握る吉野ケ里遺跡が、私たちの前に姿を現した。
吉野ケ里遺跡は、およそ700年続いた弥生時代(紀元前4世紀から紀元3世紀頃)の生活の跡を残す国内最大規模の環濠集落跡であり、一つの農業集落が地域の中心的集落へと発展していく姿を残している。
初めは小規模だった環濠集落は弥生時代前期の後半(紀元前3世紀から紀元前2世紀頃)には25000㎡程度になり、中期(紀元前2世紀から紀元1世紀頃)には20万㎡を超える規模になったと推定される。
中期の遺跡からは歴代首長(指導者)を埋葬した巨大な墳丘墓が発見された。
埋葬者の身分の高さを示す銅剣のガラス管玉なども発見発掘されている。
弥生時代後期(紀元2-3世紀頃)になると、環濠集落は40万㎡(サッカーグラウンド56個分)の規模に発展したとみられている。
環濠集落内部には、内濠や土塁、柵で囲まれ、物見櫓に守られている南北二つの内郭と呼ばれる空間がある。
厳重に守られた北内部は、祭殿と考えられる大型建物が存在することなどから、祭祀の場と考えられる。
一方、南内郭は竪穴住居跡や生活用具が多く出土したことから、首長たちの「居住区」であったと考えられる。
また、物資を集積したと考えられる高床倉庫の跡も多く存在していた。 当時は、青銅器、鉄器、木器、絹布、麻布など手工業が営まれ、外部との交易も行われていた。
吉野ケ里遺跡は、ある一つの「クニ」の中心地=「都」だったと伺わせる。 また、吉野ケ里遺跡には、同時代の中国の城郭の影響が伺える。 吉野ケ里遺跡は、大陸文化との繋がり、日本の「クニ」の誕生過程、さらには、「魏志倭人伝」に登場する卑弥呼が治めていた倭の都があった邪馬台国の謎を解明するための重要な遺跡なのである。
佐賀県には古代の人々の生活を知ることができる貴重な遺跡が残されている。(参考資料:「誰かに教えたくなる佐賀語り」より 発行者 佐賀県教育委員会)