吉野ケ里と徐福
―徐福上陸伝説の地、……-

徐福は、不老不死の仙薬を求め、秦始皇帝の命により東海の三神山(蓬莱、方丈、瀛州(えいしゅう))を目指して船団で出航したとされる方士です。方士とは、不老長生術を業とする秦時代の学者の呼び名で、医・薬学のみならず天文、祈祷にも通じていたといわれています。

徐福に関する最古の記録は、司馬遷の『史記』で5ヶ所に繰り返し記載されていますが、1982年、中国の江蘇省連雲港市かん楡(かんゆい)県において徐福村が発見され、徐福が実在の人物として学術研究会で発表されるようになりました。徐福村には祠も再建され、その内部には東方を向いたりりしい徐福の座像がまつられています。

では、徐福は、どこへ上陸したのでしょうか、不老不死の薬は探し当てたのでしょうか、弥生文明にどのような影響を与えたのでしょうか・・・ 徐福ゆかりの伝承は日本各地に残されていますが、真相は明確にはされていません。

Qinshihuang

諸富に立つ徐福像


そんな中、佐賀には徐福にまつわる地名、神社、伝説が多く残されています。 『史記』の有名な「徐福は平原廣澤を得て、王として止まり不来」などの記載は、佐賀の地形や伝承として不思議なほど一致します。


吉野ケ里丘陵は有明海に近かった

今から数万年前~1万年前頃まで続いた最も新しい氷期の後、気候が温暖化に転じたため、現在の海面より約2~3メートル高くなった時期がありました。これは縄文海進といわれています。現在、吉野ケ里から海岸線までは約20kmですが、弥生時代の中頃には、地質調査や有明海氷河期のあとの遺跡分布から、4kmくらいだと言われています。湾の奥では約2kmまで迫っていたと考えられています。この近さから、縄文時代後期には、吉野ヶ里丘陵の周辺部に人が生活していたと考えられています。

徐福の組織した遠征隊は、大船八十五隻、食糧は勿論、蓬莱島の仙人と住民への贈物、金銀珠玉、五穀の種子、各種の器具、童男童女各千人、航海術に長じた壮年の夫婦者を加えた大遠征隊でした。

有明海に入り、太良竹崎、竜王崎、海童神社、諸富・浮盃の上陸、寺井の古井戸、新北神社、源蔵屋敷、千布のお辰との恋物語、久保泉の徐福(シーフー)屋敷跡という地名、古湯温泉発見、金立神社上宮にそびえる御宝石と御湧水石など、徐福の佐賀渡来は確かと考えさせられる伝承が残っています。


佐賀平野の水と大地の歴史・九州農政局ホームページより



以下、「徐福・渡海2218年記念~佐賀・徐福国際シンポジウム~」での七田忠昭氏の資料を紹介します。七田忠昭氏:佐賀県教育庁などを経て佐賀県立佐賀城本丸歴史館館長。61年から22年間、吉野ケ里遺跡の発掘調査を現地で指揮する。

吉野ヶ里と徐福
―徐福上陸伝説の地、佐賀の平原光沢に現れた弥生都市―
※佐賀県立佐賀城本丸歴史館 館長 七田忠昭


中国の正史である『史記』始皇帝本紀・淮南衡山列伝に記された斉出身の方士・徐福の渡海(紀元前3世紀後期)に関する記述や、『後漢書』東夷伝倭条の、『史記』に「徐福が止まって王となったという」夷州を日本(倭国)あるいはその周辺に推定する記述などから、古来、その上陸地についての議論が多くなされてきた。

徐福が渡海したとされる紀元前3世紀後葉の日本は、朝鮮半島の先進文化が流入し成立した農耕・金属文化が定着・発展し、人口が増加し各地に首長が生まれクニと呼ぶことができる地域社会が成立した時期(弥生時代中期初頭)に当たる。

縄文時代の晩期(稲作導入期、前6世紀前5世紀)から稲作農業を取り入れるなどして環濠集落が形成された吉野ヶ里遺跡では、中期になる(前3世紀後葉)と、一帯での水稲生産や、マメ・ウリ類を主体とする畑作も安定し、集落の大規模化が図られる。集落の北方に大規模な墳丘墓が築造され、その中央に始祖王が葬られた。青銅器や絹布の生産も安定し、国内で例を見ない書刀(しょとう:青銅製素環頭付き鉄刀子)や木棺用と考えられる蝶番(ちょうつがい)など国内では出土例のない貴重な中国製文物が出土したことも注目される。まさに、徐福渡海と期を一にしている。さらに後期(後1世紀~3世紀)になると、中国城郭の城壁構造を取り入れた国内最大規模の環濠集落へと発展したのである。

徐福が「平原光沢を得、止まりて王となった」地は、弥生時代の初めから大陸の先進文化をいち早く受容して発展させた土地、かつ農業に適した肥沃で広大な平野であったと考えられる。肥沃で広大な佐賀平野には、有明海沿岸の佐賀市諸富町や山麓に近い佐賀市金立一帯に徐福伝説が濃厚に残っており、国内の徐福研究者の間では紀伊半島南部の和歌山県新宮市などとともに徐福上陸の最有力候補地となっている。

佐賀県神埼市と吉野ヶ里町に存在する吉野ヶ里遺跡を中心とした佐賀平野の弥生文化の生成・発展の過程には、中国や朝鮮半島の外来文化が大きく関わっている。佐賀平野の弥生文化実態をたどることこそ、今日の日中韓の交流史研究、ひいては徐福研究に資するところが大きいと考えられる。

確かに吉野ヶ里遺跡では、徐福渡海の時期に合わせて、集落の大型化、大規模な墳丘墓の築造、中国からの特別な文物の流入、絹布の出土などにみられるように、大きな変革が起こったことは事実である。

いち早く中国・朝鮮半島の先進文化を受容し、恵まれた「平原広沢」の環境の中で文化を発展させ、遂には吉野ヶ里のような中国城郭に似た弥生都市を作り上げた佐賀の弥生文化の中に、徐福に代表される中国文化の流入の実態が認められるのである。

徐福シンポジウム(2008.10.12)資料より抜粋


 
----------Copyright All Right reserved.----------
ホームページに掲載の記事、写真などの無断転載、加工しての使用などは一切禁止します。

ページのトップへ戻る