徐福と吉野ケ里 ―徐福上陸伝説の地、……-

佐 賀 県 徐 福 会
理事 太田 記代子

徐福さんは本当に素晴らしい方でいらしたと想像します。我非常敬愛徐福です。
判断力に秀いで、立派な人格者でいらしたので大勢を引き連れての航海に成功なさったのでしょう。中国の江南から有明海に入り太良、竜王と船を着けつつ湾奥に進み盃を浮かべて上陸地を探し諸富に上陸なさり浮盃という地名が残った由、シュリーマンがトロイを信じたように徐福来佐を私は信じております。

この度、国際徐福シンポジウムが吉野ケ里歴史公園で催され心から嬉しく保存運動の辛酸も吹き消されます。吉野ケ里遺跡の保存を主張し日本の遺跡行政を変えた守り神のような三人の男性をここに紹介します。三人に恵まれ幸運な遺跡でした。

先ず、第一に偉大な発見者・七田忠志先生。先生は昭和9年に考古学会誌に吉野ケ里を重要な遺跡として報告され、その後この一帯の遺跡を一生かけて守られました。教え子としてその熱心な講義を懐かしく思い出します。七田先生が亡くなられて間もない昭和57年、佐賀県の工業団地案が浮上しました。

第二の守り主、鳥栖市の江永次男先生が早速保存運動を始められています。国営公園開園の平成13年まで20年に近い歳月、身を削って続けられた保存運動に頭が下がります。
江永氏を囲む「佐賀の自然と文化を守る会」の声は無視され続け、工業団地造成の事前発掘調査は着々と進み、平成元年1月25日起工式が実施されるに及び江永夫妻は「全面保存」の横断幕を掲げ氷雨の中、山田哲秀氏、古賀芳秋氏らと共に抗議されています。そして文化庁にも保存を願う陳情書を1月23日付で出され重ねて知人の考古学者を介し佐原真氏に訴えられた所、その報が朝日新聞の論説委員・薮下彰治朗氏に届き平成元年2月23日一面の吉野ケ里大報道に繋がった事を薮下氏ご本人から直接伺った時の感動が忘れられません。こうして吉野ケ里は危機一髪、破壊から何とか免れました。

しかし、運動はこの後、更に13年間困難の連続でした。「佐賀の自然と文化を守る会」は専門的な集まりでしたので、運動を広めるために平成元年11月12日に拡大発展して「吉野ケ里遺跡全面保存会」が誕生しました。その頃、佐賀県老人クラブ会長の石田一二氏に「県へ保存の働きかけ」をお願いしていましたら、偶然にも2日後の11月14日に香月知事が石田氏の陳情書を受け取られ県内のマスメディアで報道されました。石田氏は請われてその後すぐに「吉野ケ里遺跡全面保存会」の会長になってくださいました。

第三の守り神、石田一二会長は明治の男の強さとでも言うべき力で多くの抵抗と戦って全面保存運動を続け12年余り、全国から22万筆余の署名を頂き、県を動かし国を動かし遂に国営・県営歴史公園となりました。

今、まさに佐賀・徐福国際シンポジウム会場と選ばれていますので全く夢の様です。保存運動にお力を添えて下さった全国の大勢の方にお礼を申す術もなく、ここに感謝を込めてご報告します。
文化庁や建設省の担当の方、特に岡山和生氏、田中慎一郎氏には感謝の限りを捧げます。


吉野ケ里のもう一つの幸運は「報道」にあったと申せましょう。平成元年の朝日新聞一面とNHKに始まるすごい全報道に徐福さんが力を添えてくださったとさえ思えます。「徐福を探るシンポジウム」の準備で来佐された樋口隆康名誉教授、金関恕教授、福永光司教授という錚々たる学者が内藤大典サガテレビ副社長の案内でブルドーザーが入る寸前の2月12日に吉野ケ里の発掘現場を視察されたそうです。遺跡のスケールの大きさと立派さに考古学者として驚かれ早速その夜、佐原真先生に連絡して下さった由。江永氏からの働きかけと相まって日本一多忙な考古学者・佐原氏が動かれ一大報道に結実しました。  


七田先生の教え子として佐賀市百周年記念事業のテーマに「徐福」を取り上げられた内藤氏と村岡央麻徐福会会長に恩師・故七田先生になり代わりお礼を申し上げたいです。今は亡き内藤氏は「吉野ケ里は徐福の集団縁りの遺跡だ。甕棺の人骨が証明している」と主張しておられました。歴史のロマンを感じます。

 縄文の文化に徐福が齎(もたら)した中国文化が混じり佐賀に弥生文化として花開いたのでしょう。
日中友好の為にも祖霊を敬う精神性からも保存すべきと、平成元年の報道のその日から保存運動の輪の中に身を投じました。当時保健所長でした。「工業団地」で議決済みの所を県の一管理職が異を唱えるのですから「辞表出せ」の連続でした。  

「吉野ケ里遺跡全面保存会」の運動は大きな逆風の中で報道までの2倍の歳月をなお必要としました。血の滲むような運動で吉野ケ里が守られた後に三内丸山遺跡も上の原古墳も残り、吉野ケ里効果とさえ言われ保存会のメンバーは苦労が吹き飛ぶと大喜びしました。そして日本はもっと文化や自然を大切にすべきと強く思いました。吉野ケ里一帯は遺跡と史跡の宝庫で江戸時代では治水の天才・成富兵庫茂安公の治水の跡が美しく残り「世界遺産の価値あり」と九大大学院の島谷教授が主張されています。この景観の中にダム計画があり心配しています。景観と共に吉野ケ里が守られ徐福縁りの遺跡、また佐原真先生が言われたように平和を訴える遺跡として全世界の方に見に来て頂きたいと願っております。

平成20年9月15日
(佐賀・徐福国際シンポジウム 2008年10月11日・12日より)






 
----------Copyright All Right reserved.----------
ホームページに掲載の記事、写真などの無断転載、加工しての使用などは一切禁止します。

ページのトップへ戻る