~後世へ伝えたい平和の遺跡~

 『邪馬台国時代のクニ』『佐賀県吉野ケ里 最大級の環濠集落発掘』という見出しが新聞一面で大きく報道されたのは、1989年(平成元年)2月23日。 今、改めて吉野ケ里遺跡について考えてみたいと思います。

【プロフィール】

医師
久留米大学医学部卒業
九州大学医学部第一内科入局後、小児科転入局
昭和59年~平成13年、佐賀県内の保健所長を歴任
平成15年~23年、佐賀県議会議員



目次

(1) 発見者 七田忠志先生
(2) 吉野ケ里一帯は遺跡の宝庫
(3) 縄文から弥生時代へ(徐福渡来とは?)
(4) 渡来系弥生人説(九州大学医学部解剖学 金関丈夫教授)
(5) 保存運動で守られた吉野ケ里
(6) 日本の遺跡行政を変えた吉野ケ里
(7) 吉野ケ里遺跡群を世界遺産に


(1)発見者 七田忠志先生

吉野ケ里」という地名が日本全国だけでなく 「Yoshinogari」 として世界を駆け巡ったのは、平成元年2月23日でした。

マスメディアあげての報道に、静かだった神埼は大勢の見学者で溢れ、吉野ケ里フィーバー、考古学ブームの到来と騒がれました。佐賀が明るいニュースでこれほど大きく報道されたのは、明治維新以来の事とさえ申せましょう。

吉野ケ里一帯は、元々「大切な場所で祖霊の眠る地、粗末にしてはならぬ」と、昔から戒めが言い伝えられた地だったようです。 運命の女神の采配のようにこの近くに、吉野ケ里遺跡の発見者・七田忠志先生は生を受け、遺跡群の中で育たれ、青年期の昭和9年に「基地野ケ里一帯には、日本の歴史を書き換える重要な遺跡が埋もれている」という主旨の論文を考古学会雑誌に発表されています。


素人の私でも「七田先生すごい!」と、叫びたいほどの古文調の格調高い感動的な論文です。国や県に、更に考古学会に、発掘調査して欲しいと強く希望しておられたのでしょうけれど、当時の日本は戦前であり、その後、戦争、戦後と悲劇的な時代が続き、遺跡の調査どころではなく、後まわしで無視された状態だった由です。

七田先生は、有名な考古学者として母校・國學院大學の教授就任を要請されたとき、ご自分が佐賀を離れると吉野ケ里をはじめ、県内に数多く存在する遺跡群が守られなくなる、と折角の申し出を拒まれ、一生を高校の教師として遺跡の保存に尽くされました。 特に、神埼高等女学校から神埼高校等で長く教師を勤められて、卒業生の想い出の中に、人間的魅力に溢れた先生として生き続けておられます。温かいお人柄で、ニックネームは「アチャコちゃん」。その頃、日本中で一番人気のあったコメディアンの「花菱アチャコ」に感じが似ていらしたので、生徒の誰かが捧げた愛称であり尊称でした。 私たちも七田アチャコ先生に日本史を教わりました。一年間、授業のほとんどを弥生時代の吉野ケ里の話で通され、それは非常に熱心な授業でした。

昭和28年は大水害で遺跡が表出し、加えて九州を代表する伊勢塚古墳の土を下流の千歳村等の低平地の埋め立てに使う案が行政に出て、驚いた先生は必至で反対なさり、お陰様で伊勢塚前方後円墳は重要文化財として今に残っています。
縄文・弥生・古墳時代から、奈良・平安を経て明治維新期までの遺史跡が美しく残る複合遺跡群・吉野ケ里は、日本の宝、世界の宝です。
昭和が過ぎ、平成も終わろうとする今、吉野ケ里の意義は大きく、歴史のロマンを秘めています。七田先生の教え子の一人として、吉野ケ里遺跡のことを語る機会をいただいた「ぷらざ」に心より感謝いたします。


(2) 吉野ケ里一帯は遺跡の宝庫

吉野ケ里一帯の地図を見ると、歴史的変遷が美しく纏っていることに感動を覚えます。七田忠志先生が、この歴史文化を考古学者として守るべく努力された意義を、今理解できます。

遺跡群の北の方に縄文時代の戦場ケ谷遺跡、南の方に下れば伊勢塚古墳の雄大な美しさ、すぐ西に上・下の二つの鰐(わに)神社は王仁(わに)博士が祭神として祀られています。日本に千字文(せんじもん)や論語を齎(もたら)したとされる王仁博士への尊敬と感謝の現れでありましょう。

北西に目を移すと、由緒ある古社・仁比山神社と地蔵院があります。地蔵院の寺子屋で教育を受け医者となった伊東玄朴の生家も大切に保存されており、当時の生活が偲ばれる心地よい散策の地です。九年庵の春秋の解放の季には、多くの人の心を癒す日本美の道となります。

南に下れば、櫛田神社が二千年近い歴史を刻み、博多櫛田神社の本院です。伊勢塚古墳から東に向かえば、三津永田遺跡が弥生時代、さらに夕ヶ里遺跡、松原遺跡は二重環濠を有し、少し南下すれば大型円墳が籾神社として祀られ、瀬ノ尾遺跡も弥生時代をとどめています。


神埼郡・三養基郡・佐賀郡・佐賀市一帯は、奈良・平安時代は天領であったと教わりました。ユーラシア大陸に近 く、干満の差が6メートルと大きい有明海から田手川・城原川は、潮が満ち引きし、古代中国や韓国との交流の最高の条件を備えていたと申せましょう。

それから、JR長崎線路を南下すると、目達原古墳群があったところです。惜しいことに、特攻隊の計画のために多くの古墳が破壊され消え去りました。悲しい歴史です。若者を特攻隊で爆弾代わりに敵艦に体当たりで突っ込めという計画も悲し過ぎますし、無謀すぎる…と語り継ぐべきことに思われてなりません。その特攻の飛行場として古墳を壊し、使う前に敗戦となった由です。

とにかく、沢山の古墳がこの辺りで戦争のために犠牲になりました。「古墳を壊すような戦争、勝つ筈ない」と言われた方もありました。 幸いにも、都紀女加王墓(つきめかおうぼ)とされる前方後円墳だけは宮内庁管轄でしたので、壊されずに現存しています。その南方に、下中杖遺跡があり、これは平忠盛の日宋貿易の関連遺跡だそうです。

吉野ケ里の丘陵には、世界最長の甕棺墓列が発掘されていて、その中の古代人骨は徐福さんが出港した江南の古代人骨とDNAが近いと聞きますが、今後の研究が待たれます。考古学者でも歴史学者でもない身ですので、勝手に古代ロマンに酔う自由があり、楽しく想像を逞しくして散策するのが大好きです。 このように、吉野ケ里周辺には、全国のみならず世界の歴史ファンを魅了するものが埋もれていると感じています。


(3) 縄文から弥生時代へ(徐福渡来とは?)

佐賀県徐福会主催の「徐福東渡のナゾに迫る」シンポジウムは大盛会でした。 基調講演「古代ゲノムで語る弥生人の成立」篠田謙一国立科学博物館館長。研究報告「吉野ケ里に見る古代中國文化」七田忠昭本丸歴史館館長。

次いで、公開鼎談にミスター吉野ケ里と称される高島忠平佐賀女子短期大学名誉教授が加わり、会場溢れんばかりの参加者は古代ロマンに酔い、盛り上がりました。吉野ケ里遺跡の保存に苦労した同志の先輩方も、千の風になって喜んでおられるように感じました。何より、吉野ケ里に眠る祖霊の慰霊になりました。

徐福伝説は、日本中20か所以上で語り継がれています。中でも一番濃密なのが佐賀であるのは、大陸に近いという地理的条件にも依りましょう。そのうえ、恋物語まで語り継がれるのは佐賀だけです。

縄文時代が一万年以上続いた日本列島が弥生時代を迎えるのは、徐福集団の渡来と関係がありましょう。秦始皇帝の「不老不死の仙薬を求めて渡海した」と史記に記載される徐福さんは、実存の人物と信じることができます。それは、有名な考古学者・佐原真先生が平成元年に来佐され「司馬遷の史記は史実を正しく記録した世界一の歴史書」と魅力的に話されたからです。素敵なご講演を懐かしく思い出します。 史記に「徐福得平原廣澤止王不來」と記されていますので、その平原廣澤は佐賀市から神埼・小城・三養基と広がる沃野と一致します。諸富の浮盃には、徐福が上陸した伝説が地名として残り、金立には徐(シー)福(フー)屋敷跡という地名まで残っていると聞きました。シュリーマンがトロイを信じたように、徐福渡来を信じる理由の一つです。


徐福が中國から齎(もたら)した文化文明は、縄文時代を弥生時代へと推し進めたのでしょう。更に今後、吉野ケ里の甕棺内の人骨と中国古代人骨のDNA分析が進むことが期待されます。七田忠志先生は考古学者としてこのことを予見しておられたのでしょう。

もうお一人、徐福学を佐賀で深められたサガテレビの内藤大典副社長も精力的に研究され、保存に尽力されました。今、内藤氏の著書「吉野ケ里と徐福」を読むと徐福像が判然と浮かび上がるようです。 焚書坑儒や酒池肉林の話が残る始皇帝から身を守り、家族や領民を救うために知恵を絞った立派な指導者が徐福だったと思えます。大きな船で民を運び、命を守り、平和な地を求めて渡海するしか助ける道がなかったでしょうから…。

昭和57年、中国で徐福の実存と東渡を証明したのが羅其湘氏でした。大きな船を作った造船所跡も発掘されているとか。いろいろ勘案すると、今の私たちは、元々の縄文人と中国からの渡来人との混血の可能性が医学的に考えられます。縄文人は温和で優しく、渡海してきた中国人を拒まず受け入れた、と記載されています。この歴史を証明できる吉野ケ里遺跡はまさに『平和の遺跡』で、私たちはこの遺跡を景観と共に後世へ残すべき責務があると感じています。



(4) 渡来系弥生人説(九州大学医学部解剖学 金関丈夫教授)


吉野ケ里遺跡のことは神埼高校の授業で繰り返し教わりましたが、徐福さんに魅せられたのは医師となり神埼保健所長として帰佐してからです。 佐賀医学史研究会が「佐賀医人伝」を上梓した折に徐福を吉野ケ里との関連で分担執筆したので抜粋して転載させていただきます。


徐福は不老不死の仙薬を求め、秦始皇帝の命により東海の蓬莱、方丈、瀛州(えいしゅう)の三神山を目指して船団で出航したとされる方士。方士とは、不老長生術を業とする秦時代の学者の称で医・薬学のみならず天文、祈祷にも通じていたという。徐福に関する最古の記録は司馬遷の『史記』で5ヶ所に繰り返し記載されている。

  徐福船団の東渡は紀元前219年(孝霊72年)に始まり紀元前210年まで9年に及ぶ集団移民とされる。

司馬遷が漢武帝の太史令(公的記録官)に任命されたのが、紀元前108年。渾身の歴史書とされる史記であるが、111年前の徐福出航の記録であるうえに今、二千年以上の時間的隔たりがあるので模糊としている。『史記』の有名な「徐福は平原廣澤を得て、王として止まり不来」などの記載は佐賀の地形や伝承として不思議なほど一致する。

有明海に入り太良竹崎、竜王崎、海童神社、諸富・浮盃の上陸、寺井の古井戸、新北神社、源蔵屋敷、千布のお辰との恋物語、久保泉の徐福(シーフー)屋敷跡という地名、古湯温泉発見、金立神社上宮にそびえる御宝石と御湧水石など、徐福の佐賀渡来は確かと考えさせられる伝承に富む…。



徐福は、生命の尊厳を重んじた人道的で偉大な指導者と言えよう。始皇帝に進言し殉死を改め、兵馬俑の献納に代えたとされる。始皇帝に滅ぼされた斉の国の王子という説もある。焚書坑儒の始皇帝から家族や領民を守るには集団移住する渡海を選ぶ以外になかったのであろう。

史記の「秦始皇帝大説、遣振男女三千人資之五穀種々百工面行」の記載は五穀の種などや多くの優秀な技術者集団を伴っての出航であった事を示す。

当時、日本は縄文時代が一万年以上続いていた。小柄で彫の深い顔の縄文人は温和で、徐福の集団を拒まず融和的に受け入れ、方や徐福は友好的に礼を尽くし平和裡に入港してきたと語り継がれている。佐賀市金立の徐福長寿館で顕彰されている。

昭和28年、吉野ケ里甕棺内の人骨が長身、瓜実顔で九大医学部解剖学、金関丈夫教授の「渡来系弥生人説の根拠となる。弥生時代がここに始まる。 今、徐福は金立神社に「ミズホメの命」「ウケモチの神」と共に不良長寿と水の神として祀られる。


(5) 保存運動で守られた吉野ケ里


平成から令和へと移り吉野ケ里一帯が一番美しい季節となりました。平成元年2月23日の大々的な吉野ケ里全国報道を知らない若い世代も増え、この貴重な遺跡群が簡単に守り残されたと思っておられる方もおられましょう。 「さにあらず」です。

この遺跡群の発見者・七田忠志先生が亡くなられた翌、昭和57年、何と吉野ケ里丘陵に「神埼工業団地造成」を県議会が議決。在野の考古学者・江永次男先生は直ぐに立ち上がり、保存運動を始められています。公立中学校の現職の教師でいらしたので、ご苦労の連続だったと聞いております。ここでは、吉野ケ里について時系列的に略記します。

昭和57年7月神崎工業団地決定(県)。
同年8月12日「吉野ケ里丘陵全体の完全調査と神埼工業団地の断念」を佐賀県に要望(佐賀の自然と文化をまもる会=この後、まもる会と略)。
同年12月には石滝武志県議が吉野ケ里、保存問題で質問されています。江永氏と共に保存運動を始めた山崎義次氏の働きかけもあったようです。原口一博県議(当時)や原田勇県議も続いて保存を主張してくださっています。



しかし、県は頑なに、工業団地に固執したまま平成元年2月23日を迎えたのです。神埼んもんの私は吉野ケ里遺跡がブルドーザーで造成破壊寸前と知り、吃驚仰天、直ぐに保存運動の渦の中に入らざるを得ませんでした。江永氏を中心にエネルギーの大きな保存運動でしたが、私は県管理職の一保健所長。然るに県に抗うと、度々、職を辞するようにと責められたことも懐かしい想い出です。報道にも瞠目と感謝の日々でした。『ペンは剣より強し』を実感しました。

平成元年11月12日(まもる会)から拡大発展して「吉野ケ里遺跡全面保存会」が発足。 2日後の11月14日に偶然のように佐賀県老人クラブ連合会・石田一二会長が盟友の香月知事に「全面保存」を陳情。その後、石田一二氏は請われて吉野ケ里遺跡全面保存会の会長もボランティアしてくださり、力強く運動を進められました。副会長は牛島國枝、山田哲秀、牧ユキエのお三方体制で会長を支え頑張られました。

平成4年10月27日に「国営吉野ケ里歴史公園」が閣議決定!! 

そこで、一安心と平成5年6月12日に「吉野ケ里はこうして残った」と多くの方に感謝を込め記録文集を出版(この度、復刻再版)。山田洋次監督の保存を訴える名文や、森繁久弥さんのユーモラスな保存への応援分等、有名人の寄稿文のページもあり、今読んでもワクワク胸高まります。

江永次男先生の偉大さは多くの人々を動かし、佐賀県だけでなく全国から23万筆近い署名が寄せられた結果、県と国を動かし保存に繋がり、日本の遺跡行政のターニングポイントと評される由縁です。文化と自然美を守った平成の歴史的な遺跡保存運動だったと申せましょう。


(6) 日本の遺跡行政を変えた吉野ケ里


『吉野ケ里は こうして残った』と題した左の本(平成5年6月12日初版)を今回、復刻したのは、吉野ケ里遺跡の世界遺産化を急ぐべきと考えたからです。

吉野ケ里は古代からの遠つ國との交流の歴史を語る文物の宝庫です。故に、これからの国際親善や、平和に貢献する遺跡と申せましょう。
文化財保存全国協議会の小笠原好彦代表は考古学者として世界的に活躍しておられて多忙のなか、足繁く佐賀に講演にお越しくださり熱心に世界遺産化を説かれました。

平成28年には文化財保存全国協議会の全国大会が佐賀市で開催され、この大会で「吉野ケ里を世界遺産にする事。発掘された貴重な勾玉や銅剣類を展示する立派な博物館を建て修学旅行生等の学習にも供する事」との主旨の決議をなさり、県に提出されました。新聞等でも報道されたので、憶えておられる方も多いと思います。 考古学的にも御墨付きをいただいた遺跡なのですから県民の世論を盛り上げ、次世代の矜持にも繋げる遺跡としなければNHKのチコちゃんにも叱られましょう。NHKも平成元年2月23日から衝撃的ともいえる全国報道で吉野ケ里遺跡を世にしらしめてくださいました。


この本には、その様子が理解できる江永次男先生の名文が載っております。 私が吉野ケ里遺跡の保存運動に関わりましたのは平成元年2月のこの日からですが、江永先生は昭和57年からですから、先にも述べましたようにその知仁勇に頭が下がります。

今回は、この2月23日のNHKと朝日新聞一面トップの吉野ケ里報道に繋げたもう二人の偉人を紹介します。奈良国立文化財研究所(のち奈文研と省略)研究指導部長・佐原真博士(考古学)と、薮下彰治朗・朝日新聞編集委員のお二方です。

江永次男・佐原真・薮下彰治朗の三氏は吉野ケ里に眠る霊に選ばれた方々だったのでしょうか、はたまた運命の女神か、知の女神に選ばれた方々と思わされる神がかり的な動きをされていることを後に知り、鬼籍に入られた今も忘れられない大きな存在です。本当はお三方揃って文化的な表彰をされるお姿を見たかったと思います。何しろ、日本の遺跡行政を変える原動力となられたのですから…。

吉野ケ里遺跡保存運動で多くの教訓が残りました。 一度は工業団地で造成損壊が決定していたところを、学者の見解・報道の力・世論の盛り上がりや保存運動等で遺跡がかなり残ったこと、更に忘れてならないのが、県の担当者(文化財や工業団地関連)の変更への努力と労苦です。大変だったと仄聞(そくぶん)しています。発見者・七田忠志先生が存命なら大きな体を曲げて最敬礼なさり「アリガトウ!!」と言われたと思います。 後は、この労苦を實(みの)らせるために世界遺産化が県民の責務と申せましょう。


(7) 吉野ケ里遺跡群を世界遺産に


吉野ケ里遺跡に関してシリーズで書かせていただき7回になりました。吉野ケ里の貴重さと歴史的意義について、私の筆力で書き尽くす事は不可能と思いつつの7カ月でした。

吉野ケ里保存運動を30年続けて感じたことをcriticalに書かせて頂きます。 「佐賀県民は謙譲の美徳があり過ぎなのではないでしょうか?」美徳も発揮しすぎると「過ぎたるは及ばざるが如し」の言もあります。遠慮し過ぎると「宝の持ち腐れ」で損をしてしまいます。


満州で生まれ、玉音放送を天津の国民学校で聴き、引き揚げて来た経験から、吉野ケ里遺跡は日本が世界に誇るべき遺跡と思い、保存運動の輪の中に入りました。目まぐるしい経緯の中で、たくさんの志高い方々と出会ったことを思い出すとき、胸が熱くなることを繰り返し語らせて頂きます。

考古学の先生方も、吉野ケ里遺跡を世界遺産にと努力してくださっています。平成28年6月19日に佐賀市で文化財保存全国協議会が開催され、その時に決議された決議文を引用させていただきます。



【吉野ケ里遺跡をふくむ北部九州の弥生遺跡を世界遺産に】 吉野ケ里遺跡は、政治・祭祀をおこなう独立した施設をもち、「魏志倭人伝」に「宮室・楼観・城柵、厳かに設け」と記す女王卑弥呼の王宮の構造と共通する構造のものであったことが明らかとなりました。 北部九州には、吉野ケ里遺跡とほぼ同様な性格をもつ長崎県壱岐の原の辻遺跡、福岡県平塚川添遺跡、さらに王墓の存在を示すものに福岡県平原遺跡、須玖遺跡などの遺跡があります。これらの北部九州の弥生中・後期の大規模な集落遺跡や王墓が存在する遺跡は、畿内に大和政権が出現する前段階に、他地域に先行して北部九州に小国家が分立する状態を具体的に示すものです。 文化財保存全国協議会第47回佐賀大会では、吉野ケ里遺跡、原の辻遺跡など北部九州の弥生集落遺跡は、日本の古代国家が成立する前夜の実態を知るうえできわめて重要なものであるとともに、世界的に重要な文化遺産として登録するに相応しいものであるという共通認識をもつにいたりました。 つきましては、国の特別史跡であり、国営公園である吉野ケ里遺跡を所有し、管理する佐賀県は、北部九州に所在する他県の弥生遺跡と連携をとり、世界に開かれた世界遺産に登録する作業に、早急に着手するよう強く要望いたします。

2016年6月19日
(文化財保存全国協議会第47回佐賀大会)
この決議文は知事に提出されたと新聞で報道されました。

今こそ県民こぞって吉野ケ里の世界遺産化を急ぎ、古代ローマが栄えた頃の弥生の遺跡として、世界に発信すべき時ではないでしょうか。シルクロードの西の終点がローマ、東の終点が吉野ケ里! なんとromantic!

 焚書坑儒の始皇帝から民を救うべく徐福は渡海して来られ、縄文人はそれを優しく受け入れ、弥生時代へと時を刻んだことを示す遺跡!この歴史文化と精神性を守り続けた先人に敬意を表し、平和の尊さを訴える遺跡として世界遺産に早く認可されるようにと念じ続けております。

拙文を載せて頂いた「ぷらざ」に心から感謝してペンを擱きます。


 
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