特別企画展 「よみがえる邪馬台国」
9/21(土)より、
今年で16回目を迎える特別企画展
「よみがえる邪馬台国」を開催します。
今回は 「魏志倭人伝」に記載された「伊都国」に想定される福岡県糸島市周辺の弥生時代の拠点集落や王墓などを紹介します。
併せて、紀伊水道に面し、古来より畿内とのつながりが強く、全国有数の銅鐸出土地でもある四国の阿波地域を取り上げます。
詳しくは特別企画展「よみがえる邪馬台国」HPでご確認ください。
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佐賀市徐福長寿館において高島忠平先生の講演がありました
2024年6月22日(土)
◎演題「日本の黎明」
日本最初の文明開化ー佐賀に邪馬台国がある根拠と理由ー
○文明とは
・弥生時代は日本の最初の文明開化である。
弥生時代の文明開化は国の形成・古代統一国家形成といった古代化を進めた。文明とは諸説あるが、一般的には農耕が始まり、余剰の生産を背景に農業以外の生業が生まれ、製品交易が発達し、多様な生産者による社会の組織化が進む。
同時に身分・階層間の富の偏在が顕著になり、生産と富を管理・支配、それらを統括・統治する階級と政治システムの拠点を備えた国が生まれる。
交易の発展・拡大はやがて国を超え、国相互の同盟・結合・支配へと進展する。良かれ悪しかれこうした状況を文明と呼んでいる。
○弥生時代は
・弥生時代は稲作を中心とした農耕社会が成立、広がり、安定、新たな生業が生まれ、石器・鉄器・青銅器・玉類・織物・ガラス・各種素材とそれらの技術が取引された。唐津市の菜畑遺跡に見られる。
最近、硯・権(計量の重り)・削刀(木簡を削る)などの遺物の発見から、早くから文字が使用され、共有の価値観のもとに社会的分業を可能とする交易圏と流通回路の存在が窺えるようになった。
領域・民衆・統治(王)を内包する国が各地に成立、次第に利害を通じて同盟・連合し新たな政体「倭国」を生み出したといえる。
○倭国と邪馬台国
・「邪馬台国」は「女王の之所都」とあるように女王卑弥呼が統治した国々の政治的連合体の一つで、「倭国」の祭政の拠点があった歴史的格式のある国である(現在の日本国の政府が東京都にあると同じとみていい)
・吉野ヶ里遺跡は弥生時代初期(縄文時代晩期後半)から古墳時代初期にかけて長期間継続した集落跡。水耕農耕の開始以来、草分け的集落から地域的政治社会「国」(クニ)の諸機能諸要素を集約的に配置した大規模集落として発展拡大、廃絶していく過程を明らかにできる極めて稀な遺跡である。
・従って、中国歴代王朝が弥生社会の政体を「倭国」としての認証過程と吉野ヶ里遺跡の時代推移とを対応すれば、吉野ヶ里遺跡の歴史的存在性が明らかとなる。
・方位観と統治支配
北墳丘墓と南祭壇の築造。墳丘は中央に墓坑を設け王を埋置。南祭壇は北墳丘墓南約800mに方形の巨大盛土、社稷である。この祭壇が北墳丘墓とほぼ南北の線で結ばれ、その南延長線が約60km先の雲仙岳に結ぶ。この南北の線は中国古代都市の空間計画の設定に通じる。中国の皇帝の支配観にとって南北の方位は極めて重要であった。漢の都長安は北優位の方位観に沿った壮大な空間に築かれた。
北墳丘墓と南祭壇それに雲仙岳を結ぶ壮大な儀礼空間は王の支配の正当性を示す王都吉野ヶ里の諸施設配置の空間計画である。この支配と統治の空間秩序は、古代中国の候国であった漢・燕国ー衛氏ー朝鮮ー九州北部への流民・移住の流れのなかで理解できる。
吉野ヶ里遺跡の広大な計画線遺構は吉野ヶ里遺跡のある丘陵でしか設定できない。その為に選ばれた場所である。
卑弥呼の「都」は宗廟・社稷など祭政の諸施設が、漢代王朝由来の尊北空間計画に沿って配置された。このような祭政の諸設備を整えた例は規模を含めて他にはない。
これが邪馬台国が佐賀にあった根拠と理由である。
(写真及び講演内容の掲載は高島先生の許可をいただいています)
吉野ヶ里遺跡、新施設検討へ
2024年3月7日(木曜日)の佐賀新聞報道より
2月定例佐賀県議会で山口祥義知事は国指定特別史跡の吉野ヶ里遺跡に博物館を含めた新施設建設について、多面的な角度から検討を始める考えを明らかにしました。
景観にマッチした新施設で、貴重な出土品を多くの皆様に見ていただく日が来るのが楽しみです。
連休の吉野ヶ里歴史公園レストランから
2024年2月24日(土曜日)
この3連休は、まだ肌寒くみなさん他にも予定があるでしょうにたくさんの方が吉野ヶ里歴史公園に遊びに来てくださっています。
10:30からオープンする吉野ヶ里歴史公園のレストランも家族連れや遠方からのお客様で大賑わいです。
古代貝汁御膳(1700円)むつごろうに赤米、三瀬鶏混ぜごはん、三瀬鶏のからあげに小城羊羹。
土器を思わせる器でたくさんのアサリの入った貝汁は絶品です。
お子様連れには、ホットケーキ&吉野ヶ里はちみつ(880円)、お子様うどん(570円)おすすめですよ。
園内歩き疲れたら、ぜひお立ち寄りくださいね。
吉野ヶ里歴史公園から
2024年2月23日(金曜日)
2月23日はNHKと朝日新聞一面トップにて吉野ケ里遺跡報道された(平成元年2月23日)記念すべき日です。
あの報道から今日で35年、昨年末には、吉野ヶ里遺跡から新たに青銅器鋳造鋳型が発見されました。
ゆっくりゆっくり、ただ確実に吉野ヶ里の歴史に陽の光があたりはじめています。
本日も、小雨が降ったり止んだり。風もあり身体が冷える一日でしたが、園内では【「謎のエリア」出土の青銅器鋳造鋳型 -その意義について-】の講演会も開かれ、多くの人で賑わっていました。